通貨体制の変遷
ブレトンウッズ体制のはじまり
第2次世界大戦で日本が降伏する前年の1944年、米国のニューハンプシャー州にあるリゾート地ブレトンウッズで、戦後の枠組みを決める重要な会議が開催されました。目的は、国際的な通貨体制を検討すること。英米などの45カ国は、この会議で金本位制にもとづく固定相場制を採択します。
金本位制というのは、通貨の価値を実物資産である金がバックアップする制度です。具体的には、アメリカは他国の通貨当局から要求があった場合、いつでも1トロイオンス(約31g)の金を35ドルの紙幣と交換する義務を負いました。一方、各国は、ドルをベースに定められた自国通貨のレートを、上下1%の範囲に維持することが義務付けられました。ドル以外の通貨は、固定レートでドルと交換でき、ドルは金と交換できたわけです。また、この会議ではIMF(国際通貨基金)の創設が合意され、1946年に実現します。こうした戦後の通貨制度の枠組みを『ブレトンウッズ体制』と言います。
1ドル=360円時代
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、敗戦国として終戦を迎えました。それからしばらく、日本は連合国(と言っても実質は米国)の統治下に置かれるわけですが、ドルと円の交換レートはひとまず1ドル=15円と定められました。これは意外かもしれませんが、実は大戦直前は1ドル=4円25銭だったのです。それから比べると大幅な円安に設定されたわけです。
しかし、敗戦直後のインフレによって、レートはすぐに1ドル=50円に改められ、さらに何度か円は引き下げられます。そして1ドル=360円となったところで落ち着き、1949年4月になって正式に固定化されました。その後、日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で主権を回復し、翌年にはIMFにも加盟。この時から360円が円のレートとして国際的に認められることになります。以後、ニクソンショックまでの22年間にわたり、1ドル=360円の時代が続きます。
ニクソンショック
第2次大戦後はわが世の春を謳歌していた米国ですが、大盤振る舞いの財政支出、完全雇用による過剰消費などによって、1960年代後半から『財政赤字・貿易赤字・インフレ』の三重苦に悩まされるようになります。米国人が貯蓄よりも消費を優先するのは、昔から変わっていないわけです。一方、奇跡的な復興をとげ高度成長期にあった日本は、1969年からは貿易黒字国になります。こうした世界情勢のなか、固定相場制度の維持は困難と見られ、投機筋が円やドイツ・マルクを買う動きが起こります。近年、新興国通貨にホットマネーが向かっているのと同じような現象が、40年近く前にも起こっていたわけですね。
追い詰められた当時の米国大統領は、議会に対する説明も承認を得ることもなしに、突然、テレビとラジオで全米に向けて経済政策を発表します。世に言う『ニクソンショック』です。1971年8月15日のことでした。ちなみに8月15日は日本では終戦記念日、米国では対日戦勝記念日の翌日にあたります。実際にどうだか分りませんが、わざわざそういう日を選び、高度成長を続ける日本にあてこすったという見方もあるようです。ニクソン大統領が発表した政策はいくつかありましたが、目玉は何といってもドルと金の交換停止でした。この日、通貨に関する戦後の枠組みだったブレトンウッズ体制は崩壊し、世界経済は大きな転換点を迎えることとなります。
スミソニアン合意からキングストン体制へ
『ニクソンショック』からしばらくたった同年12月18日、米国ワシントンのスミソニアン博物館で10ヵ国蔵相会議が開催されました。この会議は、米国の新経済政策をうけて、新たな国際通貨体制を検討するものでした。しかし、この時点では変動相場制への移行は見送られ、固定相場制は維持されました。ドルは主要通貨に対して切り下げられ、円レートは308円に上昇(それでもまだ300円台!)。また、為替の変動幅は従来の上下1%から暫定的に2.25%に拡大されました。
ただ、この『スミソニアン合意』にもとづく体制は長続きしませんでした。米国の貿易赤字は一向に減る様子がなかったからです。結局、1973年2〜3月に日本を含む先進各国は相次いで変動相場制に切り替えることとなります。変動相場制は1976年1月ジャマイカのキングストンで開催されたIMF(国際通貨基金)の暫定委員会で承認されます。これを『キングストン体制』と言い、現在に至っています。
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