為替相場の歴史的出来事(1980年代)
1980年代前半のドル高円安
1980年代の前半はドル高円安の時代でした。しかし、ファンダメンタルズ的には、米国が巨額の財政赤字をかかえ、日本は年間1200億ドルにも上る貿易黒字を稼ぐ状況で、通貨の需給関係から考えると、ドル安円高になってしかるべきでした。にもかかわらず、ドルは上昇し、円が下落していたのです。
この理由として、米国の金利が年利11%〜13%台(30年国債)と高かったことが挙げられます。日本をはじめ、巨額の投資資金が米国に流入し、貿易収支によるドル余剰を相殺したわけです。米国が高金利だった原因は、財政赤字に伴う米国債の大量発行とインフレ抑制にありました。また、日本では1980年12月に外為法が改正され、企業の対外投資が原則自由になりました。このため、対米投資が貿易黒字を上回るペースで拡大し、その旺盛なドル買い需要がドル高を招いたのでした。
ブラザ合意(1985年)
1985年9月22日にベーカー米財務長官の呼びかけで、ニューヨークのプラザホテルに先進5ヵ国(日・米・英・独・仏)の蔵相・中央銀行総裁が集まりました。当時の米国は拡大する貿易赤字に悩まされており、大規模なドル引き下げでこれに対処することが目的でした。と言っても、合意は事前になされており、会議自体はごく短時間で終了したらしいですが。
ともかく、発表された共同声明の内容は、市場関係者に衝撃を与えました。「参加各国の通貨をドルに対して一律10〜12%切り上げ、そのために各国は協調介入を実施する」というものだったからです。声明の発表から一夜明けた月曜日、為替市場は大混乱におちいります。円相場は前週末の1ドル約235円から、一時は20円近くも上昇。悪いことに月曜日は日本が祝日だったため、日本の企業も銀行も対応に追われることとなりました。その後もドル安基調は続き、1年半後の1987年2月には140円台まで上昇することになります。このプラザ合意は、日本では円高不況対策の金融緩和をまねき、バブル発生の遠因となっていくのです。
ルーブル合意(1987年)
プラザ合意は米国の思惑通りにドル安を招きました。しかし、いかな米国といえどもマーケットを自由にコントロールできるものではありません。ドルが想定以上の勢いで下落したため、今後はG5にイタリヤとカナダを加えたG7が、パリのルーブル宮殿に集まりました。1987年2月22日のことです。このときは、日本の内需拡大やアメリカの財政赤字圧縮などが合意され、為替相場についても、当面の水準に安定させる旨の声明を発表しました。しかし市場はこれを信任せず、日米の協調介入も空しく、ドル安の流れは同年いっぱいまで続くのです。
ブラックマンデー(1987年)
1987年10月19日の月曜日、ニューヨーク株式市場のダウ平均が508ドル(22.61%)の大暴落に見舞われました。米国の財政収支と国際収支の「双子の赤字」が膨らむ中で、ドル安懸念が強まったことなどが要因でした。1929年10月24日の木曜日に起こった暴落を「ブラックサーズデー」と呼んだことになぞらえ、ブラックマンデーと言います。1929年の暴落は大恐慌の引き金となりましたが、それでも下落率は12.8%でした。ブラックマンデーの下落率がいかに大きかったか分ります。
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