為替相場の歴史的出来事(1990年代)
アジア通貨危機(1997年)
1990年代前半に高成長を維持していた東南アジアや東アジアの国々は、自国通貨のレートを米ドルに連動させるペッグ制を採用していました。しかし、1995年頃から米国が「強いドル政策」を採用したことから、これらの国々の通貨が割高になる一方、通貨高の影響で輸出が鈍化し、高成長への期待が揺らぐようになりました。
それに目をつけたのがグローバルマクロ系のヘッジファンドでした。まず標的となったタイバーツが1997年5月に急落し、7月には変動相場制へ移行。その後、インドネシア、韓国、マレーシア、フィリピン、香港などでも通貨危機に見舞われ、各国の経済は大きな打撃を受けます。
ロシア危機(1998年)
1998年8月17日、ロシア政府は突然、次のような四つの政策を発表しました。
- 民間の対外債務の支払いを90日間猶予する(モラトリアム)。
- ルーブル(ロシアの通貨)の変動幅を1ドル=6.0〜9.5ルーブルとし実質的に引き下げる。
- 海外居住者による短期的なルーブル資産への投資を禁止する。
- 99年末までに償還期限の来る国債を新証券に切り替える(デフォルト)。
8月27日には外為取引を全面的に停止しました。9月7日に対ドル取引を再度停止したことにより、1ドル=20ルーブル台へ下落しました。
ポンド危機(1992年)
為替が変動相場制に移行して以後、欧州は城内の為替相場を安定させるための試行錯誤を繰り返します。それはやがて1999年のユーロ誕生として結実するのですが、その途中で起こった事件がポンド危機です。1979年3月、EC(欧州共同体)はEMS(欧州通貨制度)を採用し、EMR(欧州為替相場メカニズム)を導入します。これは2通貨間の変動を市場介入等で±2.25%の範囲内に抑えるというもので、緩やかな固定相場制です(通貨の一方がイタリア・リラの場合は±6%)。
1990年になってイギリスもEMSに参加しますが、ポンドにとって不運だったのは、この年に東西ドイツが統合したことです。その結果、ドイツはインフレとなり、金利を引き上げます。マルクには上昇圧力が加わった結果、ERMを維持するため、イギリスを含むEC各国も利上げに追い込まれます。しかし、この当時のイギリスは低成長にあえいでいました。とても金利を引き上げられる状態ではなかったのです。
そこに目をつけたのが、ジョージ・ソロス率いるヘッジファンドでした。彼らはオプションなども駆使してマルク買い・ポンド売りを仕掛けます。そして1992年9月にポンド売りの流れはピークを迎えます。イングランド銀行はこれに対抗して、16日には公定歩合を10%から12%へ引き上げ、さらに数時間後には15%へ再利上げします。しかしポンド売りは止まらず、イングランド銀行はERMの維持を放棄。公定歩合を10%へ戻してしまいました。この日は後にブラックウェンズデー(暗黒の水曜日)と呼ばれるのですが、先進国の中央銀行がマーケットに屈した日だったわけです。翌17日にイギリスは正式にEMSを脱退し、変動相場制へ戻ります。ポンドがようやく下げ止まったのは、翌年2月のことでした。なお、ポンド危機は欧州通貨にも波及し、1993年8月にEMSは変動幅を±15%へ拡大します。
円安から急激な円高へ(1995年)
1989〜90年はドル高円安傾向にありました。日米金利差は以前に比べて縮小傾向でしたが、機関投資家の対外投資がむしろ活発化したことが原因でした。理由は、機関投資家の外債投資規制が緩和されたこと、国内貯蓄が生保など機関投資家へ向かったこと、バブルによって含み益が拡大したことなどです。また、米国の貿易赤字が縮小方向に転換したこともドル先高期待をうながし、株・債券・不動産など米国資産を買う動きを後押ししました。
そこで、1990年4月に開かれたG7は、ドル高円安防止のための協調行動で合意しました。また、実態経済の面でも、バブル崩壊で内需が冷え込んだ日本は、輸出主導の経済となり、貿易黒字をため込んでいきます。91年から94年まで毎年10兆円を超す巨額の貿易黒字を出していました。これが米国の自動車産業界を刺激します。日米自動車交渉、米国通商法301条、米通商代表部(USTR)といった言葉が新聞紙上を賑わしました。機関投資家もバブルが崩壊したり円高による差損を被ったり、ソルベンシー・マージンが導入されたりですっかり委縮してしまい、ドル需要は大幅な不足となってしまいました。
一方で、FRB(連邦準備制度理事会)はインフレ抑制のため94年2月から95年2月にかけてFFレートを3%から6%へと急ピッチで引き上げていきました。これを嫌気して債券市場と株式市場が大幅に下落。ドル安圧力が強まったという事情もありました。
こうした情勢を映し、1995年4月19日、東京市場でドル円は過去最安値(当時)となる79円75銭を記録します。しかしドル円はここからV字形に反発します。4月25日には、G7が共同声明で「為替相場の秩序ある反転が望ましい」と発表。日本政府も8月2日、『対外投融資促進策』を発表します。欧米の投資家は、日本の投資家が80年代のように円を売って外貨を買いに出ると予測し、円売りに走りました。さらに加えて、日銀が史上最大規模の為替介入を行ったのです。その規模は、年間の経常収支の黒字が1200億ドルのときに、多い日は1日50億ドル規模のドル買い・円売りに達しました。こうしたことでドル円は急速に上昇し、9月には100円台まで戻すこととなります。
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